よく考えたい... あるケース(7) #ステージ4 #癌
26歳でステージ4の乳がん発覚
2017年03月13日
私は乳がんになる前、デザイナーとして働いていました。
やりがいのある毎日で終電帰りもザラでした。
そんな日々の忙しさにかまけて病気の発見が遅れ、26歳にして、ステージ4の乳がんを患ってしまったのです。
キャリアアップを見据えて転職活動に専念し始めたころに、ふと胸のしこりに気づきました。
乳腺症で同じ場所を手術した経験があり若いこともあって、最初は医師もエコーのみで「石灰化してるだけでしょう」との見解でした。
しかし、3カ月後に手術痕からかさぶたが出てき始め、「絶対におかしい」と思い、もう一度検査したところ乳がんが発覚しました。
そして精密検査の結果、骨への転移も2箇所見つかりました。
一般的に乳がんの検査は、細胞診から始まり、そこで疑わしい病理結果が出た場合に、さらに細胞のかたまりをとって検査する組織診とMRI検査を行い診断されます。
悪性診断が出た後に、転移していないか詳しい検査をします。
私の場合は、悪性診断が下って初めて保険適用になるPET-CTを受けました。
PET-CTでは、全身のがんなどを一度に調べることができます。
そこで骨への転移が見つかったのです。
・骨への転移も、「一通り治療すれば治る」と思っていた
当時、病気の知識が無かった私は、転移が見つかっていなかった最初のがん発覚時に、医師から「術前抗がん剤治療、手術、放射線、2〜5年のホルモン治療をすれば治療は一通り終了する」と一度説明があったこともあり、転移治療がどういうものかわかっていませんでした。
また、骨への転移が見つかった時に
「まぁ10年生きてる人もいますよ」
と医師に慰められ、「予定通り半年の強い抗がん剤治療を始めましょう」と言われたのもあり、私は「治療にはゴールがある」と思い込み、最初は「一通り治療をすれば治る!」と前向きに明るく取り組み始めたのです。
しかし、治療を進めるにつれて、転移治療とは終わりのない【#エンドレス治療】であることを理解し、ひどく絶望しました。
ただでさえ、抗がん剤を打つ度に体重が1キロずつ痩せて、顔が黒ずみ体力が奪われていくのに、これを永遠......?考えられないような苦しみに襲われました。
黒く、痩せこけていく自分の顔を鏡で見るのがだんだん辛くなり、紫外線が影響していることを知ると、家のカーテンを締め切り、顔をタオルでぐるぐる巻きにし、外に出る時は、冬なのに日傘をさしていたりしたほどです。
その後、転院した先の問診票には
「延命治療しますか? する・しない・わからない」
「宗教上の理由、リビング・ウィル(尊厳死)などありますか?あればお書きください」
など自分が死ぬときの状況についての質問があり、問診票を書く手が震えました。
まだ死ぬほどではない体調なのに、もう死ぬことを視野に入れなければいけないのか。
この時初めて、自分が死ぬかもしれないと悟ったのです。
永遠に続く治療と向き合う日々。
時には、終わりの見えない治療に途方に暮れて、一時期治療を拒否した時期もありましたが、自分なりにサバイバル方法を考えたり、人との出会いや経験したりしたことで、治療に前向きになることができました。
・ステージ4のがんになった先にも、人生があり日常があります
一般的には、【ステージ4=治らない恐怖とずっと向き合う】というイメージが付きがちですが、実際はずっと恐怖感を持って生きてるわけではありません。
心から楽しいと思える時間や、病気を忘れている時間も多くあり、ステージ4のがんになったその先にも、人生があり日常があります。
がんになってからも、新しい発見はたくさんありました。
私は【ステージ4がん】という課題に対して、どう向き合うのが正解なのかずっと模索しながら生活してきました。
それはデザイナーという職業柄、デザインを通じて【問題を解決する力】を日々養って仕事をしていたことも大きく関係していると思います。
・人生と向き合って、自分自身のライフをデザインしたい
がんになったことで、私は自分の人生ととことん向き合って、自分自身のライフをデザインしたいと思うようになりました。
自分の居心地のいい場所をつくること、最悪の状況をシュミレーションすること、チームをつくること......。ライフデザインは究極のデザインです。
私は常に、どうより良い生活をしたいかを考えてきました。
患者として弱気になるのは好きではありません。
同時に、限り有る人生を思い切り楽しみ、明日死んでも悔いはないと思えるほど、納得感のある生き方が私なりにできていると感じています。
実は先日、主治医から余命を宣告されましたが、動じずに今後の治療を選択し、生命の危機を回避することができました。
ステージ4のがん告知から、職場復帰までを振り返る
2017年03月08日
妻と小学生のこどもを持つ、一般的な37歳男性です。
「ステージ4のがん」であることを除いては。
がんだと宣告されたときに、おぼえた孤独感。仲間がいない。
家族のこと、仕事のこと、お金のこと...... 相談できる相手がいない。同じ境遇の人が周りにいない。ほんとにいなかった。
それなら自分で仲間を募るサービスをつくろうと、ネット上のピア(仲間)サポートサービス「キャンサーペアレンツ~こどもをもつがん患者でつながろう~」を、2016年4月に立ち上げました。
子どももいて、地元には親もいる。仕事やお金...... 心配は尽きません。
そんな僕みたいな働き盛り世代で、がんと闘う人たちをサポートしたい。
そんな思いから、抗がん剤による治療、副作用と付き合いながら、仕事と並行して、地道に活動を続けています。
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昨年12月に #がん対策基本法が改正され、これまで以上に「がん治療と仕事の両立」が大きくクローズアップされるようになりました。
働きながら、がん闘病中である私の「がん告知から職場復帰まで」を振り返ってみようと思います。
今から2年前、がんを告知された当時は、がんに関してはほぼ知識がなく、興味も関心もなく、まさか自分がなる病気だなんて思ってもみませんでした。
もちろん、告知後に職場にどのように伝えるのか、復帰できるのか、治療との両立はできるのかなど、不安しかなかったことを覚えています。
そんな状況の中で、手探りではあったものの、会社とどのようにコミュニケーションをとり、復帰をしたのか。
■がん告知後は、病名を言えず
2014年の夏ごろから体調に異変を感じ、下痢や体重の低下がありました。
2014年の年末には5キロほど体重が低下。
年明けには、近所の病院で検査をするものの異常なし。
しかし、その後「黄疸」という症状が出て、もしやということで、大きな病院で検査入院をすることになりました。
数種類の検査後に待っていたのは、思いがけない話でした。
2015年2月、がんの告知。
同時に、手術の説明とその日程調整。頭は真っ白。
すぐに手術をするものの、転移があり切除ができず、進行がもっとも進んだステージ4。そこから、抗がん剤による治療がはじまる。
検査入院をするときには、検査が終わればすぐに退院すると思っていたので、会社にも「すぐに戻ってきます」とだけ伝えていた。入院後すぐに、がんの告知を受けるものの、そのことについては、すぐには言えず、「しばらく入院することになった」とだけ伝えていた。
手術後、入院期間が2週間を超えることになり、さすがに長いと思った同僚から「大丈夫?」とか「ぶっちゃけどうなの?」などの連絡が入るようになる。
■涙なしでは話せなかった
手術後の回復を待って、会社、上司、近しい知人にはがんであることを打ち明けることにした。
最初は、打ち明けるたびに涙が出てくる始末。お互い悲壮感が漂い、涙を流してしまっていた。
外出ができるようになり、会社側へはまず人事部長に話をもっていった。
会社の下にある喫茶店で、がんであること、現在の症状、抗がん剤治療のこと、復帰日のメドなど、ありのまま伝えた。
助かったのは、復帰を前提に話をしてくれたこと。
2月下旬に話をした時には、まずたまっている有給を使って乗り切ろうとか、4月には新たな有給が付与されるから、復帰と治療の状況を見ながら、有給をあてるのかどうするのかは状況を見て判断をしようとか。
そして、会社としてできることは何かを社内で確認すること、私からの希望や復帰に当たっての注意事項を確認することなどの宿題をもらって、次回の打ち合わせの日程も決めた。
その後、直属の上司とも話をした。
感情的になる部分もあったが、状況を伝えることができた。
これを機に、人事部長と上司が話をしてくれて、復帰に当たっての注意点などをまとめてくれました。
■復帰前、同僚とのランチ会をセットしてくれた
4月上旬に退院し、4月中旬からの復帰を目指していた。
しかし、退院後すぐに肺炎になり、病院に逆戻りにすることにあるものの、4月下旬に復帰することになる。
復帰直前には、主治医からの診断書の取り寄せと産業医との面談があった。
そして、復帰を翌週に控え、上司の計らいで同僚とのランチ会をセットしてくれた。
このとき、同僚はもちろん私ががんであることは知らない。
ただ、3ヶ月間にわたって会社を休んでいたので、ただ事ではないという印象を抱いていたことは間違いない。
上司にとっても、私にとっても、同僚に何も言わないまま、復帰をすることは良くないと考え、ラフな場をもうけて、私の口から話ができるように配慮をしてくれたのである。
中華料理を食べながら、この3ヶ月間の出来事を話ながらも、どこか気になる私の病気。
会も半ばに差しかかったところで、笑顔で、がんであることを伝えた。
多少の驚きはあったものの、受け入れてくれた(と思う)。ランチ会が終わるときには、来週から待ってるよとみんなと握手をした。
そして、2月の告知からおよそ3ヶ月後の4月末、会社に復帰することになった。
■時系列で整理してみる
2015.2
入院(会社にはすぐに戻ってくるとだけ)
がん告知(しばらく入院するとだけ。病名は告げず)
手術(2か月〜3か月休むことにになるかも、病名は告げず)
2015.3
抗がん剤治療開始(人事部長と、上司にがんであることを告げる)
→復帰を前提にした話し合いが始まる。治療の流れと副作用、勤務時間や役割などを議論。
2015.4
抗がん剤治療(通院)
→複数回、人事部長と上司とミーティング。病状や日常生活の確認。
→上司のはからいでチームメンバーとランチ。がんであることを告げ、理解を得て復帰。
2015.4末
復帰
※会社や上司との関係性、病状、メンタルの状態などによって、様々な対応になるかと思います。あくまでも、一例として参考にしていただければと考えています。
김법수(kim bum soo) 보고싶다(I miss you)
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