#終活を (2)... 84才、一人暮らし。ああ、快適なり...
悠々自適独居生活の極意ここにあり。
齢、84。ここ数年は、自ら、妻、子供との同居をやめ、一人で暮らすことを選び生活している 矢崎泰久氏 (㊟)。
歳を重ねてもなお一層、オシャレに気を配り、自分らしさを守る暮らしを続ける、そのライフスタイル、人生観などを連載でお伝えする。
㊟ 1965~95年の30年にわたり時代の先端を行く文化人などを多数起用し、ジャーナリズムに旋風を巻き起こした雑誌『話の特集』の編集長・矢崎泰久氏。
雑誌のみならずテレビ・映画界でもプロデューサーとして手腕を発揮、数々の新たな仕掛けを試み、世に問題を提起し続けた人でもある。
同じ年に生まれ、共に“素晴らしき老い”を追い求めてきたという盟友の永六輔さんが昨年、他界し、改めて老い方について考えるようになったと語る一方、現在も精力的に執筆活動を続けている。
「どう老いるか」を考えるきっかけは永六輔さん夫妻
老いたくないと思っても、老いは誰にもやってくる。問題はどう老いるかだ。
そう気づいたのは、『生き方、六輔。』(飛鳥新社刊)という書籍を世に出した頃だった。
永六輔さんにロング・インタビューをしてまとめた一冊は大きな反響を呼び、発売して半年間で二十数万部を売り上げた。
実はこの本が誕生した背景には特別なエピソードが存在する。
2002年の春、永さんの愛妻だった昌子さんは、末期ガンの通告を受けた。
彼女は手術と放射線治療を拒否し、二人の娘と家で療養の日々を送ることを選択した。
この覚悟を知った永さんは、ほとんどの仕事から離れ、妻の側に居る毎日を送る決心をした。
ある日、昌子さんから私に電話があった。
「孝雄くんが付き添ってくれるのは嬉しいけど、私にはそれがとても負担なの。用事を作って、彼を連れ出して下さらない」
孝雄は六輔の本名。
永夫婦は「孝雄くん」「昌子さん」と出会ってから、ずっとファースト・ネームで呼び合っていた。娘たちも「パパ、ママ」「父、母」でなく、二人を「孝雄くん」「昌子さん」と呼んで育った。
永夫婦の日常生活を知っている私は、昌子さんの気持ちが良くわかった。
二人はとても仲良しだったが、夫の気遣いは妻を疲れさせるに違いないと理解できた。ほとんど何も手につかない永六輔を連れ出すとすれば、それは私にしかできないことだった。
そこで思いついたのは、わがままの言える出版社に頼んで部屋を用意させ、毎週二日、二時間ほどのインタビューをして本を作ることだった。
「生き方を語る」永六輔さんのインタビューを重ねるうちに・・・
昌子さんからも勧められて、『生き方、六輔の。』の作業が始まった。
永さんに自分の生き方を語らせることで、病床の妻を癒すという計画もあったのである。いわば昌子さんへのレクイエムだった。
三ヶ月後に完成し、昌子さんに手渡すことが出来た。
これまでの自分の生き方を真剣に吐露する傑作になった。
『生き方、六輔の。』を脱稿するや、私は次作『老い方、六輔の。』のインタビューに取りかかった。
残念なことに、昌子さんは『老い方、六輔の。』を読むことが出来なかった。
茫然自失する永さんに寄り添うようにして、私は三作目の『死に方、六輔の。』のインタビューを開始した。いずれも飛鳥新社から出版している。
かくて三部作が世に出たのだが、第一作目ほどの作品は当然ながら生まれなかった。
語り合いたいことは山ほどあったが、どうせやるなるノビノビとやりたいと話し合っていた頃に、思いがけない話が舞い込んだ。
この三部作を読んだ月刊誌『現代』(講談社)の編集者から連載対談の依頼があった。
2005年10月号に「抱腹絶倒・人生道中膝栗毛」の連載が始まった。
四年半後に『現代』が休刊になるまで対談は続き、三冊の本が講談社から出版される。
『バカまるだし』(2007年)、『ふたりの品格』(2008年)、『ははははハハハ』(2010年)がそれである。
月刊誌『創』から、連載対談を引継ぎたいという申し入れがあり、私たちはそれに応じた。
2009年5月号から2013年4月号まで「ヂヂ対談」とタイトルを変更して続いた。
そして二冊の本が創出版から上梓されている。計五冊になった。
しかも誌上だけでなく、ライブハウスで毎月一回の生対談を行うようになる。
明らかに私たちは老いに向って、走り始めていたのである。
ある種の確認を求めていたに違いない。
共に”素晴らしい老いを”求めた友の病
永さんが転んだ。
東北で地震が起きて間もない頃であった。
週に二度。
三度目に骨折し、入院を余儀なくされた。
検査の結果、パーキンソン病と診断される。
素晴らしい老いを求める二人三脚が頓挫した瞬間でもあった。
何と二人共にすでに八十才をとうに超えていた。
キッカケを探していた私は一人暮らしをすることで、自分の老いと向き合う決断をしたのである。
私は直ちに計画を実行に移した。
残り少ない人生を、納得できるものにするために。
家族と離れ、一人暮らしに踏み切る
私は千葉県松戸市の家を出て、都心のウィークリー・マンションに入居した。
持って出たものは身の回りの最小限の必需品だけ。
筆記用具さえあれば仕事はできる。
長年共に生活してきた家族と別れ、単身赴任に踏み切ったわけである。
この実験は、すでに四年続いている。
その詳細を書き綴ってみるつもり。乞うご期待というわけだ。
オシャレの似合う老人こそ、素晴らしき存在
「襤褸(ぼろ)は纏(まと)えど、心は錦(にしき)…」
という言葉がある。
身形(みなり)は貧しくても、心だけはシャンとしていろというわけである。
老いるとついついオシャレを怠る。
どうせ見栄えもしないし、服装などに金をかけたくないと思いがちなのだ。
これはとんでもない誤りであって、オシャレの似合う老人こそ素晴らしい存在は他にない。それこそ惚れ惚れとする。
私はみすぼらしい老人が大嫌いだ。
醜いだけでなく汚れて見える。実に哀れである。
口をへの字に曲げ、鼻眼鏡を気にもしない。
それどころかヨボヨボとして頼りない。
その上、僻(ひがみ)っぽいときている。
こういう老人を見かけると、私は思い切りシャッキとなる。
つまり、人の振り見て我が振り直す。老紳士たらんと自らを鼓舞し、志気を奮い立たせる。
かと言って老いは老いとして自覚しなくてはならない。
動作もスムーズではないし、言葉も滑らかというわけにはいかぬ。
歩き方にしても明らかにモタモタしている。
しかし、そのことに胡坐(あぐら)をかいてはならない。そこが大切だと思う。
戦後から70年以上通う競馬場での出来事
体調が良く、天気に恵まれた日曜日に、私はしばしば競馬場を訪れる。
少年時代に父親に連れられて競馬の魅力にとりつかれ、戦後70年以上も、ダービーの日には必ず東京競馬場へ足を運んでいる。
馬券売り場が混み合っていると、窓口でモタつく。
締め切り直前になると、後ろから罵声を浴びせられる。
「オイ、爺(じじ)い、何やってんだ。早くしろ!」
容赦ない声が飛んでくる。
ますます焦り、失敗を繰り返す始末だ。
最近の窓口は、ほとんどが自販機だから、口頭で修正なんぞは受け付けてくれない。
私は決心して、
「静かにしてください。気が散ります。それはあなたのためです」
と、毅然たる態度で立ち向かった。
いわば威厳を込めた私の姿勢によって、その怒れる中年の男は、すっかりたじろいでしまった。
ボルサリーノを目深にかぶり、三つ揃いのスーツにアスコットタイを結んだ私の身形にも気圧された様子だった。
投票を終えた私は、何事もなかったように、背筋を伸ばして立ち去った。
「すみません、お騒がせしました」
スレ違い様に男は私に詫びたのだった。
年寄りの後ろに並ぶなよ、と口から出かかったが、そこは自重した。
遊びには常に余裕と悦楽が必要である。
溺れることは慎まなくてはならない。
ヒートアップすることは、運を手放すばかりか、身を滅ぼしかねない。ことにギャンブルに興じる人にとって、冷静さだけは失ってはならない。
尊厳のない老人は生きる価値を自ら棄てている
老人を労(いた)わらない若者は、たいてい未熟である。
しかも、それに全く気が付かない。
不幸の始まりがそこにある。逆境に弱い。
それでいて、自分だけがツキがないと思い込む。
こうした人生を送って老化してしまった人は、えてして労わりを求める。
つまり根から身勝手なのだ。
混み合った電車に乗り込んで、優先席に辿り着こうとする老人は、やはりいやしい。
そのいやしさに気づかないとしたら、ゴミ同然である。
嫌な老人の典型は、何かにつけ助けを求める。
いわゆる憐みを乞う。
施しを受けることを当然と思っている。
その気持ちが間違っていることに一向に気づかない。
尊厳のない老人は、生きる価値を自ら棄てているとしか言いようもない。
何度も言うようで恐縮だが、人は誰でも必ず老いる。
自覚して老いるか、漠然と老いるかでは、雲沼の違いがある。
自分自身の現実を正しく受け入れることが、どれほど大事かを考えた時、私はなるべく人の世話になるまいと思ったのだ。
自分のことは自分でやる。
迷惑をかけないつもりでも、いつもどこかで、誰かに迷惑をかけている。
「終活・エンディングノートに関する調査」
(ライフメディア リサーチバンク調べ)
「終活ですることランキング」
(@nifty二ユース)
이해리 (Lee Hae Ri) (다비치 (DAVICHI)) - 미운 날 (Hate that I Miss You) MV
0コメント