#逝き方(3)... #最期まで自宅で暮らす方法!!!
あなたは人生の最期をどこで迎えたいですか。
この質問に「自宅で」と答える人が5割を超えているものの、実際には8割の人が病院で亡くなっている。「病院で最期」が8割の中で、最期まで自宅で暮らす...小林麻央さんが最後に選んだ「在宅医療」。
「最期まで家で過ごしたい」と思う人が多い一方、現実には8割の人が病院で最期を迎えている。
自宅で最期まで暮らすためにはどうすればいいのか。訪問看護師として在宅医療に取り組み、「市ヶ谷のマザーテレサ」と呼ばれる秋山正子さんと、新著『なんとめでたいご臨終』が発売早々重版した日本在宅ホスピス協会会長の小笠原文雄さんが語り合った。
秋山:小笠原先生のようなかたがいる地域といない地域、まだまだ地域格差はありますが、私が(41才で亡くなった)姉を病院から家に連れて帰ったのは1989年です。
当時は在宅医療の仕組みはありませんでした。
それでも、あるもの、使えるものを組み合わせてチームを組みました。
ですから、自分の地域は体制が整っていないからと、諦めないでほしいんです。
小笠原:まだあまり知られていませんが、遠く離れていても、テレビ電話を使って遠隔診療もできるんですよ。
ぼくは15年前から小笠原内科で導入していて、とても有用だと感じています。
他には、教育的在宅緩和ケアといって、患者さんの近隣に在宅医療を行う医師がいなくても在宅医療が受けられるように、地元の医師と連携する仕組みを作って実践しています。
そういう意味で、地域格差は徐々になくなっていると思いますよ。
秋山:大事なのは、暮らしの中で看取ることです。
ですから自宅に限らず、グループホーム、サービス付き高齢者住宅、シェアハウスなど、家と同じような環境で、生活の延長線上にその人の最期があればいいと私は思っているんです。
小笠原:そのためには、元気なうちに家族と話し合って、どこで誰にどのように看取られたいかをきちんと話しておいた方がいいですね。
秋山:そうですね。地域の医師、看護師、介護サービスや、ご近所さんやボランティアの力などを組み合わせれば、一人暮らしの人でも、自宅で最期を迎えることは可能です。
「周りに迷惑がかかるから病院でいい」と遠慮しないで、ちゃんと声を大にして、「家に帰りたい」「家で死にたい」と言ってほしいんです。
そうしたら私たちは全力で支えます。
小笠原:ぼくなんかは、ご本人が「家に帰りたい」、ご家族が「帰らせてあげたい」と言えば、『緊急退院』といって、その日のうちにも退院できるように病院側と連携しています。
秋山:今は、大きな病院には退院後の医療をアレンジする地域連携室という部門があって、そこが相談窓口になります。
後は各地域にある、地域包括支援センターが相談にのってくれます。
介護や訪問看護の事業所がどこにあるのか、在宅診療をやってくれるお医者さんがどこにいるのかなど、地域の事情がわかる情報誌やマップも作られていますから、自分で調べてみるのもいいと思います。
◆看取りの文化を広げていきたい◆
小笠原:長く続く訪問看護ステーションには医師や看護師をコーディネートできる人が大抵1人はいます。どのお医者さんが合うのかも訪問看護師さんはよく知っています。
秋山:小笠原先生はもともと僧侶でいらっしゃるし、生きる、死ぬということについては独自の哲学をお持ちです。
でも、先生のようなカリスマではない、地域の開業医のかたで在宅の看取りを体験されるかたが全国で少しずつ増えています。
私たちのような訪問看護師やベテランのケアマネジャーが、医師、訪問看護師、介護の人のチームを作ればできるんです。
小笠原:患者さんやご家族のことも理解しているのが、地域のかかりつけ医です。
「家で最期を迎えたい」という患者さんの願いを叶えるために、モルヒネなどの使い方に困った時には、訪問看護師、薬剤師、あるいはほかの医師に教えてもらえばいいんです。
患者さんや家族の願いが、かかりつけ医を育てるんですよ。
秋山:ある看取りの現場で、ろくに挨拶もしなかった中学生の男の子が、おじいちゃんを見送ったあと、それを手伝った私たち看護師に「お世話になりました」とお礼を言ってくれたことがありました。
やっぱり人の死は何かを変える力を持っています。
おじいちゃんはこんなふうに家で亡くなったということを次の世代に伝えて、看取りの文化が引き継がれていくといいなと思っているんです。
小笠原:そうですね、特に子供は人の死を知ると大きく変わっていきます。
それから、人の生き方・死に方をいちばん間近で見ている看護師の言葉は重い。
『なんとめでたいご臨終』を読んで死が怖くなくなったという人もいらっしゃいます。
「朗らかに生きる、笑顔で死ねる」、そんな看取りの文化を、同志としてともに広げていきたいですね(笑い)。
自宅で死ぬには在宅ケアチームの結成と本人の意思表明が重要
自宅で死ぬ──この夢を自分一人の力で実現するのは不可能だ。
理想の在宅死を迎えるためには、それを支える「在宅ケアチーム」の存在が必要となる。
そのメンバーとしては、在宅医、訪問看護師、ホームヘルパー、ケアマネージャー、理学療法士、そして家族の理解も不可欠だ。
こうした在宅ケアチームを結成した時点で本人がしておくべきことは、チームのメンバーに対し、在宅死を望む意思を表明しておくことだ。
その一つの方法が「#リビングウィル」である。
これは延命治療を拒否するための書面のことを指す場合もあるが、広い意味では終末期医療、介護に関する本人の意思表明書のことである。
とりあえず紙に日付、名前、自宅で死ぬことを希望する旨を書き、印鑑を押して、在宅医、訪問看護師、ケアマネージャーなど在宅ケアチームの全員が見える場所に貼っておき、言葉にも出して伝えておく。
中でも、強く意思表明しておくべき相手は家族、親族だ。
本人に判断能力がない場合などは、家族は本人に代わって延命治療を行なうかどうかの選択をする役割を担う。
勤務医時代に500人以上、その後、かかりつけ医として患者の自宅で700人以上を看取ってきた長尾クリニック院長の長尾和宏氏が指摘する。
「不治の病で、末期症状の患者の場合の治療は、延命どころか、むしろ寿命を縮め、本人の苦痛を増大させるだけです。
ところが、患者の子供の中には『親不孝ばかりしてきたから、死ぬ前ぐらいは最高の医療を受けさせたい』と病院での治療を望む人がいます。
また、在宅死を望む本人の意思を尊重しても、今度は遠くの親戚から『親を見殺しにするのか』と責められる子供もいます。
残念ながら、リビング・ウィルに法的拘束力はなく、医師は家族の決定には逆らえません。
でも、自宅に意思を書いた紙を貼った上で、家族や親戚に周知し続けていれば、家族や親族も『最期ぐらいは本人の希望を叶えよう』となるでしょう」
いつ、意識が不鮮明になるかわからない終末期においては、最期までどのように生き、どのように死にたいのか、逐一本音を周囲に話しておくことが重要になる。
医療・看護・介護の3点セットで認知症も在宅看取り可能に
死ぬ場所として多いのは「病院」だが、最近では自宅で死にたいという希望を持つ人も多い。
では、患者が自宅に帰った後はどんな生活が待っているのか。
岐阜県にある小笠原内科の小笠原文雄院長は現在、在宅医療で約150人の患者を受け持っている。
24時間体制で在宅医療を行う同院は、併設の「小笠原訪問看護ステーション・介護支援サービス」と連携し、寝たきりに近く通院が困難な患者や、老衰や末期がんなどで自宅での看取りを希望する患者に往診や訪問看護を行う。
小笠原内科のスタッフは小笠原さん含めて医師6名、看護師2名、臨床検査技師1名、管理栄養士1名、秘書&事務3名の計13名。
小笠原訪問看護ステーション・介護支援サービスの訪問看護師14名、言語聴覚士1名、ケアマネジャー5名(兼任3名)と連携して在宅医療を行う。
特徴的なのは、「トータルヘルスプランナー」(以下、THP)と呼ばれる独自のスタッフがいることだ。
「医療、看護、介護福祉、保健などの深い知識を持ち、在宅医療にかかわるスタッフを統括する司令塔です。患者の様態を見抜いて、医師には薬の処方、ケアマネジャーには介護道具の準備などを指示し、家族のケアまで担当します。常に先手を打つことが大切な在宅医療において、先の読めるTHPは欠かせない存在です」(小笠原さん)
多職種連携・協働・協調+介入のキーパーソンであるTHPは国家資格ではなく、小笠原さんの母校・名古屋大学や、日本在宅ホスピス協会で育成・認定している。
小笠原内科では、訪問看護師がTHPとして活躍する。
通常の往診は担当医、ケアマネジャー、看護師の3者で行うが、症状によっては3~4名の医師が同行する。
末期のケースは基本的に訪問看護師が毎日1回、患者の元を訪れ、医師は時に往診もするが緊急の必要がなければ、iPadを使った遠隔診療も行う。
お互いの表情が画面に掲示され、患者の具合がよくわかるという。
とはいえ、患者が認知症だったり、重度の介護が必要な場合、下の世話も含めた「24時間介護」が求められることがある。
介護地獄から介護殺人に至るケースがたびたび報じられるように、日本では認知症患者が在宅医療を希望しても、それが家族の重い負担となり、悲劇を招くことが多々ある。
しかし、小笠原さんは「認知症患者でも在宅の看取りは充分に可能」と断言する。
「医師、看護師、ヘルパーなどで医療・看護・介護の3点セットが支えられれば認知症でも在宅で看取れます。徘徊の恐れはありますが、『ある程度のリスクは仕方ない』という考えを家族が共有すれば、案外無事に過ごせるものです」
激しい疼痛を伴う末期がんでは在宅医療に躊躇する患者や家族もいるが、小笠原内科では、そうした患者に「夜間セデーション」を行う。
「精神安定剤を使い、夜間はぐっすり眠ってもらうことで疼痛を感じない方法で、朝が来るころには薬の力が切れて、自然と目を覚まします。
夜間セデーションを受けた患者は、『夜間の痛みから解放されてこんなに幸せなことはない』と口をそろえて喜びます」(小笠原さん)
大橋巨泉氏 終活の日々と叶わなかった「金婚式の夢」
テレビ界の巨星堕つ。『11PM』『世界まるごとHOWマッチ』『クイズダービー』など往年の人気番組の司会者・大橋巨泉氏が82歳で亡くなった。
死因は急性呼吸不全だったが、2005年に胃がんを発症して以来、長く病魔と闘ってきた。2013年には中咽頭がんとなり、その後リンパ節や肺にも転移。
度重なる手術や放射線治療にも耐え続けた。全盛期には80キロあった体重は45キロにまで激減していたという。
その間に巨泉氏は、徐々に「終活」を進めていた。
「かつて生活の拠点にしていたオーストラリアの自宅を昨年10月に手放し、今年6月には22年続いた週刊誌連載も終了した。
遺産などについても細かく考えていたようで、孫たちが“Gショックが欲しい”と腕時計をねだると、“そんなの買わなくていい。
そのうちお祖父ちゃんのもっといい時計をつけることになるから”と話していたと聞いています」(巨泉氏を知る芸能関係者)
来たるべき死と向き合い、着々と準備を進めていた巨泉氏。
しかし大きな心残りがあったことも窺える。2005年、本誌のインタビューで「今後の目標」を問われ、こう語っていた。
〈夢はありますよ。あと14年、85歳まで生きれば金婚式がある。俺はお祭り好きだからね。古希の時のプレゼントの裏には『喜寿待ち』って書いたんだよ。でも、最大のイベントは金婚式だと思っている。死んだら死んだで仕方がないけれど、やっぱり85歳までは生きたいよね〉(2005年7月29日号)
金婚式まであと3年。愛妻家として知られた巨泉氏の無念はいかばかりだっただろうか。妻・寿々子さんは、巨泉氏の死に際し、コメントを出した(一部抜粋)。
〈約11年間の闘病生活を勇敢に戦って来ました。特に4月からの3ヶ月間は死を覚悟し、全てを受け入れ、一言の文句も言わず、痛みも訴えずに、じっと我慢をしてくれました〉
〈どうぞ大橋巨泉の闘病生活に“アッパレ!”をあげて下さい〉
大橋巨泉氏の薬の誤投与 特殊なケースではない!!!
最期は自宅で迎えたいという要望の高まりから在宅医のニーズが増えているが、経験の浅い医師が新規参入するケースもあり、経験不足によるトラブルも増えているという。
そして、内閣府の意識調査(2012年)によると、自宅で最期を迎えたいと考える高齢者は54.6%にのぼる。
しかし、実際に自宅で臨終を迎えるのはわずか12.8%となっている(2014年)。
今年7月、急性呼吸不全で亡くなったタレントの大橋巨泉氏(享年82)のケースでも、在宅医の“資質”が取り沙汰された。
11年間にわたるがん闘病生活を送ってきた巨泉氏は、亡くなる約3か月前に千葉県内の自宅に戻り、在宅医療を受けた。
しかし、在宅医は背中の痛みを訴えた巨泉氏に大量のモルヒネを投与。
意識障害を起こすなどした巨泉氏は退院してわずか6日後に再入院し、そのまま帰らぬ人となった。
妻の寿々子さんが死後、発表した手記の一文だ。
巨泉氏の在宅医は「元々は皮膚科の専門医」だったことが明らかになっている。
巨泉氏のケースが特殊ではないと話すのは、埼玉県在住の霧島文子さん(仮名・60)である。
「長く認知症を患っていた母は1年ほど前から寝たきりが続き、褥瘡(じょくそう=床ずれ)に悩まされていました。在宅医に相談すると、軟膏を塗ってガーゼを貼って“これで大丈夫”と言うだけ。でも、日が経つにつれて患部は広がり、とうとうお尻一面がただれたように真っ赤になってしまいました。
近くの大学病院で診断を受けたところ、患部の皮下組織が壊死している。
“切開手術が必要です”と言われたのです。
すぐに在宅医に伝えると、“私の専門は泌尿器科ですから!”と逆ギレされました」
他にも在宅医療を選択した家族に話を聞くと、
「夜中に往診を頼んだ時、酒に酔って家に現われた」(60代・男性)
「80代の父が夜中に“胸が痛い”と訴えたので、在宅医に往診を頼んだら不機嫌そうな顔でやって来て、鎮痛剤を飲ませて3分で帰ってしまった」(50代・女性)
などの証言を得た。
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