「課題先進地域」あいりん地区に学ぶこと... #寄せ場 #ドヤ街
あいりん地区のような「寄せ場」(日雇い労働者が集まる地域)と言われる地域。
①喧騒の度合いが違う。街の辻々に人々がいて、活気がある。混沌としている。
②興味深いのは、無縁化の最先端を行くようなあいりん地区で、数年前から、弔いへの関心が高まっていること。
「いつ死のうと構わないし、自分が死んで悲しむ遺族もいない」とぶっきらぼうだったのが、「やっぱり葬式はあげてほしい」とか、「自分と似た境遇の人の葬式なら参列する」という人が増えている。毎年お盆に夏祭りの一環で慰霊祭が行われます。
いつもはバラバラな人々も、この時だけは祭壇に集まって、静かに祈ります。
あいりん地区でも、1990年代前半にバブルが弾けると関西の建設需要が冷え込み、日々の宿泊代を工面できなくなり、路上で夜を過ごす労働者が急増しました。
1993年の新聞ではあいりん地区だけで700人の野宿者がいると報じていましたし、90年代後半には千人を超えたといいます。
ところが、1995年の阪神・淡路大震災で建設需要が少し盛り返した。
「寄せ場」でも、都心の野宿者のテント村でも、社会の憂き目にあった人々が寄り合う場所には、共通して独特の雰囲気がありますよね。
貧困層が居住する場所という意味では「スラム」という言葉もあります。
ドヤ街(ドヤは宿〈やど〉の逆さ言葉で、簡易宿泊所のこと)のイメージが強いあいりん地区です。
白波瀬さんの著書『貧困と地域』で興味深いのは、「釜ヶ崎は『スラム的な性格をもつドヤ街』」と書かれている。
1960年代までは、釜ケ崎には子どものいる世帯が比較的多く住んでいた。
1961年には、この地区にあった萩之茶屋小学校(2015年3月閉校)には1290人もの児童が在籍していた。
3畳間に家族全員が過密状態で住まうような環境で、スラムの住民たちは、子どもの不登校や、売春で生計を立てる女性などの問題を抱えていた。
その代わり、家族持ちが多く、定住性も高いですから、人間関係は比較的緊密です。
ところが、1970年の大阪万博に向けて日雇い労働力の集積地としての性格が強まり、単身男性が集まるドヤ街の色合いを濃くしていきます。
●「スラムとドヤの違い」
●あいりん地区は、大阪市西成区の北東部にある1平方キロメートルに満たないエリア。
もともとの地名を「釜ケ崎」と言った。
1922年の町名変更で「釜ケ崎」の地名は消滅するが俗称として残る。
1960年代に暴動が頻発、行政が対策のために地区指定を行い、1966年に「あいりん地区」と改称された。
●あいりん総合センターに集まっている労働者斡旋の車。労働者の高齢化が進み、工事の集中する年度末などには思うように人数を集められない業者もいる。
60年代に行政のスラム対策によって斡旋された公営住宅へ移った人、転居できる経済力のあった人などが抜けていき、残ったのが、最も厳しい境遇にある日雇い労働者だった?
●萩之茶屋南公園(通称・三角公園)にある、今ではめずらしい街頭テレビ
●萩之茶屋南公園(通称・三角公園)の炊き出しに並ぶ人々
●愛煙家も多いが、タバコはどんどん値上がりしているため旧3級品の安い「わかば」を愛飲している人が多い
孤立死、あいりん地区でも他人事ではない!!!
例外的な地域だと思われてきたあいりん地区が、「自分たちの未来の課題と地続きの場」と捉えられるようになっている。
「それの何が悪いの?」という声もありました。
孤立死を社会問題であるかのように論ずることへの違和感です。
「ひとりで生きて、ひとりで死んでいけばいいじゃないか」と。社会全体の個人化が想像以上に進んでいる。
だからといって「地縁を育みましょう」というような単純な解ではないとは思います。
ただ、興味深いのは、無縁化の最先端を行くようなあいりん地区で、数年前から、弔いへの関心が高まっている。
「いつ死のうと構わないし、自分が死んで悲しむ遺族もいない」とぶっきらぼうだったのが、「やっぱり葬式はあげてほしい」とか、「自分と似た境遇の人の葬式なら参列する」という人が増えている。
毎年お盆に夏祭りの一環で慰霊祭が行われる。
いつもはバラバラな人々も、この時だけは祭壇に集まって、静かに祈ります。
血縁・地縁・社縁がないと「無縁」と言われるわけですが、あいりん地区や山谷にある縁はそれらのいずれでもないんですよね。
だとすると、「別の縁」でがんばっていくしかない。
しかしそこに、現代社会全体へのヒントもあると思います。
無縁社会を悲観するだけでなく、地縁・血縁・社縁以外の縁を創る。
そうして、いわば「豊かな無縁社会」を目指す。
新しいかたちの弔いや慰霊祭はそのための取り組みであると考えれば、希望でもある。
貧困地域を美化したり神話化したりする必要はありませんが、単に見下したり、忌避したりするのではなく、せっかくの蓄積を正当に評価する視点も持ちたいですね。
再開発による変化
白波瀬 // 関西学院大学社会学部准教授。社会学博士。1979年京都府生まれ。2007年から2013年にかけて地域福祉施設「西成市民館」でソーシャルワーカーとして活動。専門は福祉社会学、宗教社会学、質的調査法。
あいりん地区は今、再び大きく変わろうとしています。その大きな契機は、2012年1月に当時の大阪市長橋下徹氏が提示した、あいりん地区を主な対象にした「西成特区構想」です。構想では、子育て世帯の呼び込みや、観光客誘致のための取り組みが計画されています。
本書でもうひとつ書きたかったことは、これまでじっくりと培ってきたあいりん地区なりの「縁」が、大規模再開発によって失われかねないということです。
湯浅 // 社会活動家。法政大学現代福祉学部教授。1969年東京都生まれ。2008年末の「年越し派遣村」村長を経て、2009年から足掛け3年、内閣府参与に就任。
実は、私は、あいりん地区のようなところは大丈夫じゃないかと思っているんです。長年貧困が集中してきたからこそですが、そこに多様な人たちが関わり、縁づくり、コミュニティづくりを担ってきた。その蓄積によって、たとえトップダウンで「改革」が降りてきても、それを自分たちの文脈に読み替えて、飲み込んでしまうような「したたかさ」があるのではないか、と。「萩之茶屋まちづくり拡大会議」のような、地域にかかわるさまざまな組織が連携する動きを見て、そう思いました。
白波瀬
会議には、相互にかかわりがない、あるいは反目し合うような関係だった、連合町会や簡易宿泊所の組合、支援団体、福祉施設などが一堂に会しています。実際、野犬の問題、道路を違法に占拠して営業してきた屋台の問題、覚せい剤の売買など、長年放置されてきた難問に関しても、この会議が動き出したことで、結果的に行政が重い腰を上げていきました。
湯浅
あれだけ多様な地域団体・住民を同じテーブルに着かせることができた。私は、民主主義の力量というのは、8割は多様な人たちを同じテーブルに着かせる力だと常々思っています。その意味で、あいりん地区は住民自治・民主主義がちゃんと機能しているわけです。それは、行政などに対する単純な反発や迎合ではなく、むしろ行政施策を自分たちの文脈に読み替えて、「活用」してしまうような規定力です。今後、国や行政がまちづくりに介入してきても、それらを逆手にとって、したたかにやっていく。そういう力があると思う。
白波瀬
実際に、まちづくりに尽力している人たちはその自負を持っています。今あいりん地区で暮らしている人たちを守りながら、町の活力を高めていかないといけない。
●1970年に設立されたあいりん総合センターには、労働施設、病院、公営住宅、シャワールーム、トイレ、食堂などが入っている。耐震性が問題視され、近い将来に建て替え予定
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