「白い杖」聴覚障害でも使用... #「ステッキのチャップリン事例」
2016年11月30日 20時17分 日テレNEWS24
視覚障害者の人が持っている「白杖」。駅や街中で見かけることも多いが、この白杖について、周囲が正しく知らないためにトラブルが起きていることもあるという。実は、白杖は聴覚などの障害がある人も持つことがある。私たちが知っておきたいこととは―
■白杖でスマホ…「詐欺じゃないの?」
「白杖を持って、スマートフォンを見ていたら『詐欺じゃないの?』と言われているのが聞こえた」
――これはある視覚障害者の声だ。白杖を持っている人は皆、視力がゼロの状態、つまり全盲の人だと思われがちだが、実際には全盲ではない人も持っている。道路交通法第14条ではこう定められている。
目が見えない者や、それに準ずる者は道路を通行するとき、白または黄色のつえを持つか、盲導犬を連れていなければならない。
つまり、視野が欠けていたり、視力が弱くて眼鏡をかけても矯正できなかったりする人たちも白杖を持つ場合がある。さらに、聴覚や平衡機能の障害がある人も白杖を持つことができる。つまり、白杖を持った人が、スマートフォンを見ていることもありうる。
白杖を持つのに、明確な基準というのはないが、医師に勧められたり、通勤ラッシュの時に駅の階段から落ちてしまうなど、危険な目に遭ったりして白杖を持つようになる人が多いようだ。
■視覚障害者にとって便利なスマホ
「ノバルティスファーマ」が提供しているアプリを使うと、病気で目が見えづらい方がどう周りを見ているのか体験することができる。緑内障の場合をみると、周りが暗くて視野が狭くなっているのが実感できる。見え方は人によって様々だが、トイレットペーパーの芯をのぞきながら歩くような感じと例える人もいる。
そんな視力が弱い人にとって、実はスマートフォンは便利だという。文字を拡大することもできるし、文字を黒から白に反転させることなどもできるので、視力が弱い人は、こういう機能を活用している人も多いという。スマホの機種によっては、文章の読み上げ機能などもある。
■“誤解”恐れ事故にあうケースも
つまり、冒頭の白杖に関する発言は、完全な誤解になる。そんな誤解を解こうと視覚障害者の手で作られたストラップがある。白杖をモチーフにしたキャラクターとともに「白杖=全盲とは限りません」などと書いてある。
日本点字図書館などで販売しており、自身も視覚障害者でストラップを作った制作委員会の渡辺敏之さんは「誤解を恐れて、白杖を持たずに歩き、ケガをしたケースもある。周囲の人をトラブルに巻き込まないためにも、視覚障害者が安心して白杖を持てるようになれば」と話す。
■遠慮せずに声をかけて
私たちは、白杖を持った人を見かけたらできるだけ積極的に声をかけていきたい。日本盲人会連合では、困っていそうなら遠慮せずに声をかけること、特に、危険なときは、ためらわないで話しかけることが大切としている。
今回のポイントは「正しく知る」。実は小栗キャスターも“聴覚に障害がある人が白杖を持つことがある”と、取材するまで知らなかったという。知らないと、あらぬ誤解や偏見を生む可能性がある。そうしたことで人をいたずらに傷つけないためにも、まずは正しく知るということを心がけたい。
視覚障害者の「白杖SOSシグナル」めぐり議論 「広めるべき」「広まってほしくない」――協会に聞いた
ねとらぼ 3/4(土) 12:10配信
人混みの中で、白い杖をまっすぐに掲げて立ち止まる視覚障害者。
「白杖(はくじょう)SOSシグナル」と呼ばれるこの独特のポーズがTwitterで話題になっています。
東京新聞の記事を引用しつつ、「(このサインを)見かけたら声をかけてあげてください」「この記事をシェアするだけでだれかの『困った』を解消して助けるコトができます」と呼びかけるツイートは、現在までに5万7000回以上リツイートされています。
この「白杖SOSシグナル」はもともと福岡県盲人協会が考案したもので、視覚障害者が「今、助けてほしい」と思った時に、白杖を掲げることで周囲に助けを求めるというもの。
実は40年ほど前から存在していましたが、残念ながら今のところ世間一般ではあまり知られていない、というのが実情でした。
一方、この「白杖SOSシグナル」については以前から反対する声もありました。
そもそもこのサイン自体が、視覚障害者の間でもあまり知られておらず、このままサインの意味だけが広まってしまうと「サインを出していない=困っていない」と受け取られてしまう危険性がある――というのが主な理由。
ツイートが話題になると、今回も「むやみに拡散してほしくない」という声が少なからず見られました。
そもそもこのサインはなぜ生まれたのか。一部で指摘されているように、安易に拡散すべきではないのか。福岡県盲人協会に聞いてみました。
――このサインを考案した経緯を教えてください。
福岡県盲人協会:もともとは視覚障害者の人権擁護のために考案しました。
なかなか普及が進まないため、5年ほど前に再度ポスターを作って日本盲人会連合へ応募したところ、岐阜大会にて取り上げられ、また内閣府のサイトにも啓発シンボルマークが掲載されるようになり、注目が集まったものと思われます。
――しかし注目度のわりには、あまり見かけないような気もします。
福岡県盲人協会:そのあたりはこちらとしても苦慮しているところです。
声だけではなかなかSOSが表現できない視覚障害者に使っていただきたいのですが、このシグナル自体が浸透しないと、意味がありませんので。
――「サインが出ていないから大丈夫」という誤解を招くのでは、との指摘もあります。
福岡県盲人協会:それについては、周知徹底を図りたいところです。
ですが、この活動の本来の目的は「白杖=視覚障害者」というのを健常者に向けてアピールすることなんです。
大規模災害などで現場が混乱していると、ただの杖と白杖の違いを見分けられない人もいらっしゃいます。
まずはそういった方々に「白杖」というものを知っていただく、という活動が主ですね。
――白杖を地面から離すことへの抵抗感がある方もいるようです。
福岡県盲人協会:はい。そのことも把握しています。
そういった場合は、周囲へ声をかけるなどの対応をしていただきたいと思っています。
周囲の健常者の方々も、手助けが必要な方がいれば積極的に手を貸してほしいですね。
なお、友人の1人に全盲の視覚障害者がいたため個人的に話をうかがったところ、「このようなシンボルは知らなかった。困った時は声を上げるか布を振って助けを呼ぶ」とのことでした。
友人は生まれつきの全盲で、小さいころからの教育もしっかりと受けているはずですが、それでも「知らない」のですから、確かにシグナルの普及率についてはまだまだだと言えそうです。
まずは「視覚障害者を助けよう、人権を保護しよう」という根本に立ち返り、困っている人がいれば、障害者であろうとなかろうと、積極的に手助けを行い、少しでもお互いが理解しあえるようにしていくのが第一かもしれません。
ステッキを社会的に認知してもらいたい《前編》
サン・ビーム「ステッキのチャップリン」
自らが体験してきた「不便さ」「不自由さ」「不利益」をビジネス開発の原動力にして、超高齢社会のニーズに応える「新たな価値」を提供する――。
前回は「企業と障害者のコラボレーションによる商品開発」を推進する取り組みを報告したが、障害者の中には自ら会社を興し、先頭に立って商品開発やニュービジネス展開に挑んでいる人たちも少なからずいる。
それら「障害のある社長」たちが提供する商品の中には、消費者の潜在ニーズを掘り起こし、それまでになかった新しいタイプのヒット商品に成長したケースも多い。
今回は、そうした障害のある社長たちの起業ストーリーを紹介する。
前編は東京・西新宿のホテル「ヒルトン東京」の地下1階で日本で最初のステッキ専門店「ステッキのチャップリン」を経営する、片足の不自由な山田澄代サン・ビーム社長、
後編は視覚障害者のためのIT(情報技術)機器やソフトウェアを開発・販売する全盲の望月優アメディア社長。
2人とも自身が抱える身体障害を起業の出発点にすると同時に、他社との差別化を図る企業アイデンティティーの源泉としている。
障害のある社長たちにとって、障害は決して「ハンディキャップ(=社会的不利)」ではなく、経営者としての「個性」であり、会社を伸ばす最高最大の「武器」なのである。
ここ数年、街に出ると、杖(ステッキ)をついて歩くお年寄りの姿をよく目にするようになった。
我が国社会の急速な人口高齢化を象徴する風景である。
百貨店やスーパーマーケット、ホームセンターなどの介護・福祉用品売り場に行けば、どの店舗でも多種多様なステッキが所狭しと陳列されている。
形状も、色・柄・デザインも、実にバラエティーに富んでいる。
持ち手(グリップ)部分は傘のようなオーソドックスなJ字型もあれば、L字型やT字型をしたものもある。
杖本体のシャフトも木製、樹脂製、金属製などいろいろなタイプが取り揃えてある。
ステッキはいまや、福祉用品コーナーの主力商品のひとつに数えられるようになっている。
最近では、100円ショップにも中国製など安価なステッキが並んでいるほどだ。
ステッキ市場を作り出した女性社長
ステッキだけの販売統計はないが、日本福祉用具・生活支援用具協会(JASPA)が実施した「2008年度福祉用具産業の市場規模調査」によると、杖や歩行器などの「移動機器等」の国内出荷額は約946億円。
前年比2.6%減少したものの、ここ10年ほどは毎年1000億円前後で安定的に推移しており、調査開始年の1993年度実績(約304億円)の3倍以上に拡大している。
そんなステッキの市場性にいち早く着目し、ながらく忘れ去られていた「シニアに必須のおしゃれ生活用品」としての価値を“復権”させた最大の功労者と言っても過言でないのが、サン・ビーム(東京都新宿区)の山田澄代社長(71歳)だ。
山田社長は1996年5月、渋谷区富ヶ谷に日本で最初の、そして当時は日本で唯一のステッキ専門店「ステッキのチャップリン」を開店した。
開店当初は、自ら現地で買い付けたヨーロッパ製の高級ステッキやアンティーク・ステッキの輸入販売を行っていたが、ほどなくしてオリジナル商品の自社開発にも着手。
1999年に発売した「GINZA」シリーズを手始めに、よりファッション性を高めた上級タイプの「freedom」シリーズ、長さを自由に調整できる特許出願商品の「イージーフィット」シリーズなどを次々と商品化し、「日本で唯一のステッキ専業メーカー」へと脱皮を遂げる。
わけても福祉用具業界にセンセーションを巻き起こしたのが、最初のオリジナル商品「GINZA」シリーズだ。
標準的な一本杖の「ストレートタイプ」に加えて、使わない時は5つ折りにして専用ポーチにしまえる携帯性に優れた「折り畳みタイプ」を初めて商品化。
どちらのタイプも身長に合わせて適正なサイズを選べるように、78~92センチメートルの豊富なバリエーションとアジャスター付きのゴム製の石突きを用意。さらに、シャフトには無地柄だけでなく、花柄、動物柄、マーブル調、マホガニー調など、10種類以上の色彩鮮やかなデザインを採用した。
いずれも、それまで「障害者や高齢者のリハビリ用具」としてしか見られていなかったステッキの概念を打ち破る独創的なアイデアだった。こうした機能性と斬新なデザインによって、同シリーズは発売以来十万本以上を売り上げる大ヒット商品になり、その後を追って、多くの福祉用具メーカーが類似商品を続々と市場に投入、今日のステッキ市場を形作ることになったのである。
ステッキを愛するセレブが集うサロン
2004年には、西新宿にあるホテルヒルトン東京地下1階アーケード「ヒルトピア」に店舗と本社を移転。
現在は大阪にも小規模なサテライト店舗を出店しているほか、山梨県明野村には流通センターと工房を構えている。
従業員数も、娘で後継者の佐藤まゆみさんら12人に増えた。
販売ルートも、直営店と自社通販サイトでの直販のほか、高島屋、三越、伊勢丹など全国の主要百貨店、カタログハウスなどの大手通販会社、東京大学医学部附属病院や初台リハビリテーション病院などの売店といった多様な販路を開拓し、年商は約1億5000万円に達している。
ヒルトン東京にある直営店は、山田社長のステッキに対する思いと同社の企業理念を端的に表した造りになっている。
喜劇王、チャールズ・チャップリンの等身大フィギュアが来店客を出迎える店内は、高級感を演出したヨーロッパ調の調度品で飾られ、常時1500アイテムに及ぶ様々なステッキが美しく陳列されている。
ちなみに、店名の「チャップリン」は、チャップリンの遺族との間で正式な国際ライセンス契約を結んで使用しているものだ。
この店のセールスポイントは、通販や他店向けには出していない“単品物”を数多く揃えていること。
一番高いのは、1本220万円もするスネークウッドの天然木を使ったステッキ。
ほかにも、高級素材である黒檀製のステッキなど、現在ではほとんど入手困難という逸品がずらりと並ぶ。
アンティーク物の中には、シャフトの内部に天眼鏡や万年筆、小さなワイングラスといったおしゃれな小物を隠し込んだ「仕込み杖」、持ち手に人や動物の精緻な彫刻を施したステッキなど、遊び心に富んだレア物も多く、見る者を飽きさせない。
来店客はそんなアンティーク品を愛でながら、スタッフとゆったりと会話を楽しむ。それがこの店での買い物スタイルだ。
山田社長自身が接客に当たることも多く、それを楽しみに来店する人も多いそうだ。
常連客の中には作家、俳優、歌手、大手企業の経営者、政治家、さらには皇族関係者など著名人も数多くいて、修理の依頼や友人へのプレゼントの購入など、機会がある度にわざわざ自分自身で出向いてくるセレブもいるという。
つまり、この店はステッキを愛する人々が集まり、ゆったりとした時間を過ごす「サロン」なのだ。
これこそが、「日本一のステッキ愛好家」を自認する山田社長がこの店に託した願いなのである。
おしゃれなステッキが、どこにもなかった
山田社長にとって、ステッキは人生の伴侶そのものだった。3歳の時にポリオ(小児麻痺)に罹り、左足が不自由に。子供時代はずっと松葉杖で過ごし、19歳で手術を受けてからは普通の杖を使うようになった。
学校卒業後、大手生命保険会社のセールスレディーとなり、持ち前の行動力と明るく社交的な性格、きめ細やかな顧客フォローで実績を伸ばし、20歳代半ばにしてトップ外交員にのし上がった。
その後、販売企画会社を興して、女性経営者に転身。
その間、プライベートでは結婚、出産、そして離婚を経験した。
障害の有無は別にして、山田さんの半生は、高度成長期を疾走してきたキャリアレディーの先駆者の典型だったと言えるかもしれない。
全速力で駆け抜けてきた、そんな山あり谷ありの半生を振り返ると、かたわらには常にステッキがあった。
山田さんは「ステッキは私の体の一部。いや、単に体を支えてくれるだけでなく、心の拠りどころでさえありました」と語る。
けれどもその一方で、ずっと不満に思っていたことがあった。それは「おしゃれなステッキがどこにもない」こと。
仕事が軌道に乗り、身なりやファッションにお金を使えるようになってからも、山田さんは「歩く度にガチャガチャとうるさい音のする無機質なリハビリ用の金属杖」をずっと使い続けていた。買い換えようにも、金属杖以外は手に入らなかったのだ。
そんな山田さんに転機が来たのは、「チャップリン」を開店する10年ほど前。
観光で訪れたパリで、文字通りに人生を一変させる出会いがあった。
有名な「蚤の市」をぶらぶらと散策して楽しんでいた時、100年以上は経つであろう竹製のアンティークのステッキを見つけたのだ。
よく見ていくと、ほかの露店でもいろいろなステッキが売られている。
中には「妻へ、愛を込めて」といったメッセージが彫り込まれているステッキもあった。
「杖を贈ることは、その人の人生に敬意を表す意味があることを知りました」と山田社長。
日本でも戦前までは、ステッキは紳士淑女の優雅なファッションアイテムだった。
それが効率優先で経済復興にひた走る戦後はすっかり忘れ去られてしまった。
だが、ヨーロッパではステッキ文化が今も脈々と息づいている。そのことに山田さんは強い衝撃を受けた。
その時から山田さんは、満たされなかったステッキへの想いを埋めるかのように、猛烈な勢いでアンティーク・ステッキの収集を始める。
機会がある度に買い集め、パリのオークションでエリザベス女王ゆかりのガラス製ステッキを競り落としたこともある。気がつけば、コレクションは数百本を超えていた。
やがて、「日本にもおしゃれなステッキを求めている人はいるはず。
その人たちにも、お気に入りのステッキを持つ喜びを届けたい」という思いが強くなり、ついには50代半ばにして、ステッキ専門店という新しいビジネスに挑戦することを決意するに至る。
「病が嵩じて、とうとう自分自身がステッキ屋の店主になってしまったわけです」と山田社長は笑いながら当時の経緯を説明する。
ゴールは品質の確立と文化の定着
「人生の総仕上げの時期に、ステッキという私の個性を生かせる最高の商品と出会うことができて、本当にハッピーだと思っています」と語る山田社長だが、ステッキを単に生活の糧を得るための商材とは考えていない。
「ステッキを社会的に認知してもらう」ために、熱い想いを持って社業の枠を超えた社会活動を行っているのだ。
それは一種の使命感とさえ言えるものである。
山田社長が追い求めているテーマは2つある。
1つは、ステッキの機能・品質の確立。科学的データに裏付けられた形で、障害のある人や高齢者のQOL(生活の質)向上に役立つ“理想のステッキ”を開発することが目指すゴールだ。
もう1つは、ステッキが持つ「文化性」の再評価。
1人でも多くの人にステッキを持つ喜び、使う楽しさを伝え、日本にもヨーロッパのような「ステッキ文化」を根付かせたいと考えている。
前者については、時に自らモニターになることも厭わずに、創業当初から医療・福祉の専門機関などの研究活動に協力を続けてきた。
2004年には、武藤芳照・東京大学大学院教授の呼び掛けに応じて「転倒予防医学研究会」の旗揚げに専門メーカーの立場で参加し、転倒事故の抑止を目指した活動に取り組んでいる。
「福祉用具として捉えた場合、杖はとてもデリケートな道具です。材質や形状、重さ、そして使う人の年齢、体力や体格、使用場面などによって、どれが最適かは千差万別なんですね。だから、理想のステッキと言っても簡単には割り出せない。ですが、当店にはこれまでにご利用になった3万人以上のお客様のデータが蓄積されています。この貴重なデータを活用する方策をぜひとも考えていきたい」と、抱負を語る。
後者については、さらに多彩な活動を展開している。
常連客向けにご自慢のステッキを颯爽と抱えて参加できる船上パーティーを企画したり、映画やテレビドラマの撮影用に秘蔵品を貸し出したり、手を替え品を替えの広報宣伝活動を精力的に展開。
また、毎年11月には杖にゆかりのある代々木八幡神宮で、顧客の依頼を受けて使い古したステッキを納める「杖の清め祓い」も執り行っている。
代々木八幡は、天照大御神をお祭りする場所を探すために全国各地を杖をついて巡幸したとされる倭姫命(やまとのひめのみこと)を祭る神社。
ここにいったん納めたステッキは修理したうえで、地雷による障害者がいる発展途上国などに寄贈している。
障害と共に歩んだ人生は「水五訓」の如く
ステッキ文化を定着させるために、山田社長が持ち続けている最大の夢は「ステッキ博物館」を作ることだ。
今年4月には、そのためのデモンストレーションとなるような独自イベント「ステッキなステッキ展」を、店に隣接する「ヒルトピア」の一角で開催した。
ここに出店していた高級和食店が撤退することになり、取り壊し前の跡地で急遽開催したものだ。
バブル全盛期にオープンしたこの店は、有名な宮大工が高級国産材をふんだんに使って内装をしつらえた本格的な和風建築だった。
取り壊しの話を聞いた山田社長は「このまま壊すのでは、いかにももったいない」とテナント管理会社と直談判し、店内を博物館の展示室に見立てて“秘蔵”の個人コレクションなどを無料で公開したのである。
その中には、例のエリザベス女王のガラス製ステッキももちろん含まれていた。
展示会は告知期間がほとんどなかったにもかかわらず、大きな反響を呼び、テレビなどのマスメディアも取材にやって来た。
「常設の博物館を開くには先立つものも必要ですし、とても1人ではできませんが、協力したいと言ってくださる人も少しずつ増えています。
ですから、これだけは何が何でもやり遂げたいですね」。山田社長は確かな手応えを感じている様子で、力強く言い切った。
最後に「貴方にとって、障害とは何でしょうか」と尋ねた。すると、山田社長は「辛いこともたくさんあったし、いいこともたくさんありましたね」とだけ静かに答えて、1枚のメモ書きを筆者に手渡した。
そこには「水五訓」という言葉が自筆でしたためられていた。軍師として名高い黒田孝高(官兵衛)の言葉だという。
「一、自ら行動して、他を動かしむるは水なり。
一、常に己の進路を求めて止まざるは水なり。
一、障害にあい、激しくその勢力を百倍し得るは水なり。
・・・」
山田さんは「そんな水に、私はなりたいと思っています」とほほ笑んだ。
辻井伸行 / ノクターン 第8番 変ニ長調 作品27の2
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